【ナゴ日記 2021/09/30】選択肢としての東京駅
夏休み最終日ですがいつも通り過ごしています。
多分明日以降もいつも通り過ごすんだと思います。
今日はちょっとショート記事の文体をいつもの「です・ます」調から「だ・である」調に変えてみます。
こっちの方が書きやすい気がしたので。
選択肢としての東京駅
たまに関東へ遊びに行くとき、だいたい品川駅で新幹線を降りるのだが、時折東京駅まで行くことがある。
その時に実感するのが、やはり東京駅は日本の起点なのだなということ。
京都駅を初めて見た時に兵庫の住宅街に住んでいた私はその規模に驚いたわけだが、東京駅の大きさはそれをはるかにしのいでいた。
単純な乗降者数や乗り入れ本数でいうと新宿駅や渋谷駅の方が大きいのかもしれないが、別々の場所に向かう新幹線が何本も発着しているのはやはり圧倒的である。
他にも様々な路線の起点駅となっており、一本選ぶだけで東北にも北陸にも関西にも向かうことができる。
選択肢の多さという観点から見ると、間違いなく日本一と言っていいだろう。
ここで急に話が変わるが、私が今読んでいる本の紹介をする。
イスラエルの歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏が書いた「ホモ・デウス」という本の和訳版である。
この本はベストセラーにもなった氏の書籍「サピエンス全史」の続編ともいえるもので、我々ホモ・サピエンスの歴史を振り返り、これから人類はどのような形で発展していくのかを分析している。
私自身、人類史や世界史には非常に疎いのだが、この本は大衆向けであり前提知識が無くても理解できる。
そして何より面白い。
さて、この本を紹介したわけだが、今回は人類史や文化論の話をしたいわけではない。
あくまで私は読者でしかないので、書籍の内容が気になる人は是非読んでいただきたい。
この本の文体には、世界中の文化や歴史に関する豊富な具体例や比喩がテンポよく挿入されているという特徴がある。
様々な時代・地域の具体的な事象を挙げることで話が抽象的になり過ぎず、実体験のレベルで論を理解できるようになっているわけである。
これがこの本が読みやすい理由のひとつでもあるわけだが……
そのなかのひとつにこのようなものがあった。
自由意志の存在についての疑義を提起している場面である。
たとえて言えば、脳内の東京駅で、人は脳の決定論的なプロセスによって特定の思考の路線を走る列車に乗り込まされるのかもしれないし、ランダムに路線を選んで列車に飛び乗っているだけなのかもしれない。
『ホモ・デウス』 p107ページより
あなたが選挙でどこかの政党を選んだとき、それは必然的に選んだのかもしれないし、偶然選ばれたのかもしれないが、それが脳内の物理的な現象に依存している以上は完全に自由に選んでいるとはいえない、ということを比喩的に説明している文章である。
考え始めると悩んでしまうような哲学的話題であるのでこの記事内では内容には触れない。
個人的に印象に残ったのは「東京駅」という比喩をわざわざ挟んでいることである。
原文を見ていないので訳者が勝手に挿入した可能性もあるが……
この文自体が脳の決定のプロセスを電車に例えるという比喩であるため、東京駅である必要性など全くないのだが、それでもこのような書き方がなされているということが少し気になった。
ハラリ氏は歴史学者であるので、このような特定の地域の事物を引き合いに出すときに適当な引用はしないだろう。
とすると「多数な選択肢が存在する」ことを世界中の読者に伝えるための比喩としてわざわざ東京駅が選ばれたことになる。
こう考えるとかなりしっくりきた。
先述した通り、私が首都圏の外の人間として東京駅を見ると、いつもその選択肢の多さ、多方向へ向かう起点であるという事実に圧倒される。
これと同じ感覚が世界中の人にとってもある程度共有されているのだろうと推測できる。
このことには少し驚いたが、同時に納得もした。
もしかするとこの感覚は都心部で生まれ育った人には共有できないのかもしれない。
しかし、様々な地方を一点で結んでると捉えることもできる「東京駅」、様々な地域の文化を一手で選択できる「東京」という存在は、やはり異質なものであるという感覚を私は持っている。
とまあ、いつもと違う感じで記事を書いてみましたがどうでしょう。
謎解き紹介!みたいな記事は人に聞いてもらう前提なので「です・ます」で丁寧に書くのがいいと思いますが、自分の思ったことをつらつら書くときはこちらの方が良さそう。
まあ、上手く使い分けていきたいと思います。